このまちレポート

「農業をやりたくてもやれない」「将来的には必ずよみがえるを信じて」

2012年8月1日

25日夜、福島県農民運動連合会、浜通り農民連のお二人からお話を伺いました。

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原発から20キロ以内の警戒区域内、今年の4月に警戒区域は解除され日中のみ家に戻れるようになった小高区の亀田さんは津波の被害は免れて家はそのままあるものの水道も電気も通っていない、家の中のゴミも敷地内からだせない状況で、もちろん農業の再開のめどはたっていません。三浦さんは津波の被害を受け、田んぼがだめになりました。原発から11キロと言いますから、全く再開の目処はこちらも一切見えてこないといいます。息子さん御夫婦は千葉に避難されているとのことです。

海岸線は津波で流され、山間部は放射能が流れた阿武隈山系で農産物がつくれない、ダムから水がくる地域は、ダムからの水を使って米をつくらざるをえない。国は除染をやって農業ができるようにと言っているが、放射線量が高くてとてもやれるような状況ではない。
農地が汚染された。しかし長くかかっても取り戻していきたい。長い闘いになる。同時に日本から原発をなくすために闘っていきたい。
農業を再開するにはお金がかかる。自分のところは震災以前に戻すには8千万から1億ないと元に戻せない。

農水交渉や東電交渉を普通にやっていたら助けてもらえない。国は支援する形は一応つくったが、条件がいろいろあって、結局認めてもらえないことが多い。

ふるさとに帰りたいというそのふるさととは、農業を営み、以前生活していた時の生活ができるのがふるさとで、皆が戻るんだったら帰りたいということだ。80歳を過ぎている母親は、家に戻りたいと言っていたが、日中帰ってみるたびに、ここで生活はできない、もどれないという実態と直面しているとつらそうに語られました。

子育て世代はとてもあそこで子育てはできないと考え、高齢者はここでくらしたいといい、ひとつの家族のなかでけんかしたり離婚もおこっている。糖尿病の薬が避難中に手に入らず、腎不全でなくなった方もいる。先が見えず精神的にやんでいる人が増えているなど、現地の苦しみは想像を絶すると思います。

浜通りの農民連、そのなかの小高区は一番ひどい被害を受けた。農業をやりたくてもやれない。
未来は見えない。今は目の前のできることをひとつひとつやっていくことのみ。ひとつひとつやって、解決策を見いだしていくことだと思っている。無我夢中でやっているのみだといわれました。

本当に困難ななか、復興組合をつくったり、NPOをつくったり、農民連の事務所づくり、今年の12月には米の直売所やカフェなどをオープンさせたいと考えているなど力強いことばに、本当に農業にかける思いを強く感じました。
そして最後に、「将来的には、必ずよみがえる」と土地を愛する思いに本当に感動しました。こういう農業を営む人たちのおかげで、日本の食は成り立っている。「日本の食料は日本の大地から」これを奪う原発事故であり、日本から原発をなくすためにたたかっていきたいという亀田さんの強い意志に本当にそうだ!と共感するものです。