視察2日目の7月26日、南相馬市役所で被災状況をお聞きしました。冒頭、復興企画部の職員と同席した共産党渡部市議から「今、被災地のことが忘れ去られようとしているのが、一番怖い」といみじくも同じ挨拶がありました。このことばに、遅々として復興が進まないことに対する不安からこうしたことばがでざるを得ないのが実態なんだと思いました。被災自治体にこんな思いをさせてはいけないと本当に思いました。
原発から半径10キロ圏内に避難指示がだされたのが、翌12日の5時44分。同じ日の18時25分には、半径20キロ圏内にだされました。放射能汚染の状況は当初はわからなかった。国や県からも連絡なく、ラジオの報道しかなかった。未だに政府からの避難指示の文書はなにもないとのことで驚きました。
ラジオの報道で知って、ともかく住民に早く知らせなくてはと市の広報車をだし、それだけでは広報車が足りず、渡部市議の宣伝カーも出動し、市議が運転し、職員がマイクで避難指示が出たことを知らせたとのこと。
どこまで逃げれば安心なのか、どこが10キロなのか20キロなのかわからない。原発の防災計画、避難計画がなかった。東海村のJCO臨界事故の時に、旧原町市から「つくらせてほしい」と国や県に言ったけれども、つくるのは10キロ圏内でよしとされ、市はつくらなくてもよいとされたとのこと。まさに安全神話のもたらした惨害です。
ガソリン不足で物資が届かず苦労した。餓死状態で亡くなる人もでた。放射能の汚染がわかると警戒区域内に物資が入らなくなり、市役所から車をだして受け取りに行った。1ヶ月ほど配給のようなひもじい状況が続いたとのことでした。
病院は看護士不足で、ベッドがありながら開床できない。見通しも立たない。こうした状況ではここで子育てができない。若い子育て世代が避難している。生活インフラがダメージを受けていて、市としてはここをなんとかしたい。
飲み水は地下水があって検査して安全なので本当によかった。
私は、市役所の職員の被害状況を質問しました。原発事故で職員も本当に怖い思いをしたし、正直辞めた職員もでた。若い職員は、家族を避難させて単身赴任状態で勤務をしている。不安定な生活が続き、今でも不安や動揺もがあるが、自治体の職員としての使命があるので、なんとかがんばっていると苦悩を語っておられました。本当に身を挺してがんばっておられる姿に胸が熱くなりました。
今、職員不足で大変とのこと、復興の推進や避難住民への行政サービス、住民の暮らし、福祉、医療などを守る要になる役所の職員不足の解消に国はもっと本格的に支援すべきと思いました。
最後に、福島のことを風化させないでほしい。再生できるように生活支援を、原発でうしなったものは著しく大きく、もとに戻るための支援が必要です。と話されました。
渡部市議に小高区を案内してもらいました。
小高区は、この4月から、日中の立ち入りは解除されましたが、夜間は立ち入り禁止です。地震、津波、原発の被災地です。
まだあの時のまま、時間が止まっている
商店街は、ひとっこひとりいない。やせた犬が1匹あるいていました。1階が完全にぺしゃんこになっている家や家全体が大きく傾いている家々には、立ち入り禁止のロープが何軒にも張られていました。書店ではたくさんの本が崩れたまま、瀬戸物屋さんでも瀬戸物が粉々になったり、くずれたまま。あの時あのままで時間がとまっているようでした。
さらに津波被害もここはすごくて、この集落は50戸の集落ごと流されたところや、本当なら水田には稲が鈴なりだったと思われる広々とした農地には草が生え荒れたまま、車が流されたままだったりしています。大きな家が多いのですが、1階部分は津波で持っていかれ、中ががらんどうでがれきがへばりついたまま、新築であと1週間後に引き渡し予定だったという家は完全に土台から向きが90度ちかく変わって建っていました。
海抜ゼロ地域の干拓地は、水門が大変大きな役割をもっていますが、津波がくるというので水門を閉めて避難したとのことですが、あまりにも高い津波で至る所から水が押し寄せ、水門を閉めたままの状態でさらに水の深さが高くなり、あっという間に多くの人や家を飲み込み、被害を大きくしたとのことです。
水を抜くには、水門を開けるしかないのですが、あけるすべがなかなかみつからず、渡辺市議は、水没した防波堤の上を腹這いになって、どこかに水を抜く場所がないか探したとのこと。聞いていても恐ろしくなるのですが、夢中でやったとのことですが、どこもなかったとのこと。やっと水門工事をした業者と連絡が取れて方策を聞き、自衛隊があけたとのこと。水門を20センチだけ上げたのは、それ以上あげると遺体が流されてしまうからということでした。
私たちが行く1週間ほど前までその水が引いていなかったとのことです。
私たちが行った時にはまだポンプで水を吸い上げ川に流していました。
1軒も家が残っていませんでした。
がれき
所々で大小のがれきの山ができていました。でも仮の仮の置き場とのことです。がれきの仮置き場は4か所つくる予定ですが1か所しか決まっていないとのことです。なぜか、最終処分場が決まっていない。中間貯蔵施設も決まっていないから、仮置き場も決まらないとのことです。そして一般建築物の除染はまだとのことでした。
小高区にボランティアで壊れた家の片付けをしている方が数人ほど見かけましたが、ほとんど家の片付けに戻っている家は見かけませんでした。片付けてもそのゴミや家具の壊れた物などを自分の家の敷地内におくしかないので手がつかないとのことです。
10キロ圏内の警戒区域の境界道路には警察官が警備に当たっていましたが、10キロ圏内はまだ人の手が全くくわえられていないのです。あらためて、原発の被害はひとたび起きれば命を危険にさらし、人々の生業と生活の糧を奪い、農地や水田、海を汚染する。家族をバラバラにし、子どもの成長に大きな影響を与えるんだと、他の災害とは比べようもない大きな惨害をもたらすことを実感しました。
渡部市議の地元、合併前の旧小高町は、原発から一番近くて9,7キロ地点、合併前は、町としての原発の防災計画はもっていたとのこと、住民へのヨウ素剤も用意していたとのことですが、避難命令がでたので配れなかったとのことでした。渡部市議は、全会派の推薦で、議会につくられた復興特別委員会の委員長を務めておられるとのことで、今全力で被災地をまわり、復興のために奮闘されていました。
昼食をともにとって午后は鹿島区の鹿島小学校に行きました。その報告は次の機会にします。