東日本大震災から2年1ヶ月がすぎた4月25日、26日、共産党市議団は津波の被害が甚大だった岩手県大槌町と釜石市に視察し、行政の方からお話を伺い、そのあと現場を歩き、現地の党議員さんからも聞き取りを行い、地域を案内していただきました。
地域一帯が津波で住居を流された家々は未だに土台がそのまま、建築物は天井や壁が壊された爪痕がそのまま残る等、2年経っても本当に復興の道のりは遠いというのが第1印象でした。それでも所々にある瓦礫の山は場所によっては3分の1程に減っているところもあるとのこと、また仮設の商店街も営業され1歩ずつ歩み始めているのも感じました。
大槌町では
写真(左)岩手県上閉伊郡大槌町の城山から大槌湾と大槌港方面を望む、(中)被災した大槌町役場とその周辺、(右)被災した大槌町役場
25日、震災後の地域医療や職員の状況について、津波の被害で廃墟になったため学校を改修して開設している大槌町役場でお聞きしました。
釜石保健医療圏内にある大槌町には県立大槌病院と民間の7診療所、6歯科診療所、6調剤薬局があったがこれら町内の医療施設の全てが被災してしまったとのこと、震災直後、ライフラインが途絶えた中でまずは透析患者さんをヘリコプターで遠野市や花巻市に搬送し、予定日をひかえている妊婦さんは釜石市の病院へ、高齢者は高齢者施設「四季の里」に医師がいたのでそこに搬送したとのこと。まさに緊急手配で無線をたよりに連絡をとりあったとのことでした。
1週間ほどでここにこういう人がいるなどの情報が避難所と役場機能を持った中央公民館に口頭や紙で寄せられるようになり、名簿を手作りでつくりはじめ、全国からの医療団の手助けで往診してもらったりした。その調整は応援にはいったのぞみ病院の先生がおこない、保険師チーム、栄養士チームは釜石保健所が采配し、薬剤の不足の状態をつかんで薬剤師会が医薬品を調達してくれる等、医師会をはじめとした釜石保健医療圏内の日頃からのチームワーク、協力体制がとれていたのでそれが生きたとのことでした。3月初めに1回目の予防接種をしたこどもへのBCG予防接種が、4月初めにできたと聞きこれも驚きました。
県立大槌病院はその年の6月に仮設の診療所で再開したけれども、救急医療は失われており「県立釜石病院」と「せいてつ記念病院」での対応を余儀なくされているとのこと、再建は県が主体で行うけれども県立大槌病院、釜石医師会の意見を踏まえて再建場所を決定し診療科目や病床数等の機能面について県医療局と調整を図りながらの整備となり、医師の確保についても施策の検討を行っていくとのことでした。
また現時点で3診療所が本設、1診療所が仮設で再開、歯科は2診療所が本設で再開しているとのことでした。再建にあたって県の補助事業があるけれども平成27年度までの期限付きなので、個々の診療所の意向を踏まえ、町の公共施設等の配置計画との整合性も図りながら再建場所の確保について、可能な限り支援を検討したいとのことでした。
災害時の住民の核になるのは役場機能であると思いますが、その体制がどうであったか、派遣職員のことも含めて総務部の担当班長さんからお聞きしました。
被災前の職員136名中、町長以下40名の職員が被災したとのこと。特に課長級11名中7名が被災、残る3名が3月末で高齢退職し、住民や地域のことがよくわかっている経験のある50代の幹部職員を失ったことはとても大変だったなかで、総務課の危機管理主幹が采配を振るった。平成23年4月1日付けで新入職員や岩手県の職員も迎えて115名体制で新年度スタートしたとのことでした。
当初、職員を3つのグループに分けて遺体対策班、避難所対策班、医療対策班の3班体制で、8時間交替で2日ずつあたったが、2日だと引き継ぎが大変で混乱したのですぐに固定化したとのことでした。2週間ほどの期間、夜はうつらうつらしか眠れず、着の身着のまま、水がないので手も洗えずお風呂もはいれなかったとのこと、女性は3班にははいらず避難者、職員の食事を担当した。1日目は主食なし、2日目は玄米が届きおにぎり1個、3日目はおかゆをだすことができた。不眠不休が続くなかで心身の疲労がみられる職員には診断書を書いてまずは休ませるようにした。平性25年1月に派遣職員が亡くなるという痛ましい事態がおこってしまい、今でも独身の男性職員が出勤してこないととても心配とのこと。
今年度から岩手県の心のケア専門士の方が、役場に常設できてくれ、いつでも相談体制がとれるようにした。相談者は多い時は10人程、少ない日は2、3人のときもあるとのことでした。被災直後、辞令がでた派遣職員は1,000名を超えたとのこと。平成23年5月から105名、24年度は94名、25年度は84名の職員派遣を受けているとのことです。派遣職員も大震災の疑似体験をしているので強い気持ちが必要とのことでした。
職員体制の「現状と課題」は、派遣職員の宿泊施設の不足、復興業務の負担が大きいこと、職員も被災者であり、半数以上が仮設住宅でくらしているとのことでした。復興交付金はあるけれども復興の事業をこなす職員が足りないという新聞報道がありましたが職員の増員が必要だと思いました。
学校、警察、病院、役場等の公共施設がすべてなくなっており、これらの再建場所をどこにするのか、住民の集団移転場所については、これら公共施設の再建場所との整合性をもたせなくてはならないのでまだこれからの協議になっていくとのことです。高台移転をおこなったり、2~3mの地盤のかさ上げをしてから住宅の再建がはじまるとのことで、まだまだ厳しい道が続きます。
住宅再建するときに重くのしかかる消費税増税は被災者にとって厳しすぎます。
朝日新聞の最近の報道で「自主財源の根幹である町税は落ち込んだままで、予算の0.9%に止まっている。1万6千人近くいた人口が3千人減り、事業所の半数以上が再建できないため住民税や法人関連税などの町税が震災前の半分しか見込めないという」・・・という記事を教えてもらいました。
被災地の住民の暮らしが1日も早く安定するため、水産関連等の基幹産業を早く立て直し雇用の確保もはかること、役場の職員を増やし、住宅とともに生業の確保、医療や介護、子育てや教育などが元通りに復旧、復興することの支援に国は全力を尽くすべきと強く思いました。
2人の女性の幹部職員の方に、丁寧に話していただきました。被災後の実態とその後の様子や思いがひしひしと伝わり、涙なしには聞けませんでした。
そのあと、共産党の町会議員の方に、避難所と役場機能を果たした中央公民館を案内していただき、住民の方々とも懇談し、1日目は終了しました。
写真(右上)大槌川と破壊されたJR山田線橋梁、(左下)仮設でつくられた福幸(ふっこう)きらり商店街。NHK人形劇ひょこりひょうたん島のモデルのひとつとされる蓬莱島が大槌湾内にある。