4月12、13日と私たち市議団は福島県の被災地の視察に行きました。2012年7月に行って以来の現地です。マイクロバスで福島県庁に行き、放射能汚染の現状などを、県職員から聞きました。
お昼は共産党福島県議団と昼食を共にしながら懇談しました。まる5年たちますが、自殺者は80人、仮設住宅での孤独死は66人にのぼるなど増加傾向にあり、災害関連死は被災死をはるかに上まわり、被災3県の関連死の半分を福島県が占めているなど、地震、津波のうえにさらに原発事故の3重苦は人々の生業とふるさとを奪っていることが語られました。避難指示が解除されると1年後には東電からの損害賠償が打ち切られます。すでに打ち切られた人たちもいて生活困窮も深刻化しているとのこと。5年間放置した自宅はハクビシンが住みつき、ガラスが割れたまま、雨が降り込んで、床はぼろぼろになっている。避難したまま帰ることのできない被災者は10万人にものぼります。
原発事故のもたらす被害は本当に過酷だと改めて思います。「県は東電を原因者というが、東電は加害者です。原発事故を起こしたのは政府の責任。」「この立場をはっきりさせながら、私たちは引続き住民に寄添い頑張っていく」と県議団のみなさんの話を聞きながら、こんなことは決して2度と起こしてはならない。こんな実態が広がっているのに、原発再稼働は絶対だめと本当に強く思いました。
移動して相馬市へ。相馬市役所の方と合流し、市内の被災現場やその後の様子を案内していただきました。まず大規模な防災備蓄倉庫(左の写真)を見学しました。公募で「兵糧蔵」と名付けたとのことです。災害対策本部も設置できるよう会議室があります。人口36000人の市で1万人が3日間しのげる量を備蓄しているとのこと。案内してくださった方は、被災後3週間お風呂に入れなかったとのこと。ここではそうした教訓を生かしシャワールームを設置。当時、700枚しか毛布がなく広報車で毛布を集めた教訓から7000枚の毛布をストック。米を15度で定温管理する倉庫もありました。煮炊きする大釜(一番大きいものは400人用)は薪でも使えるように。リヤカーはパンクしないタイヤで。(右の写真:防災備蓄されている大きな鍋)
あの日、相馬市内で10人の消防団員が津波にのまれ亡くなりました。その方達の遺影が飾られ、建物の外には慰霊碑が建てられていました。私たちも手をあわさせていただきました。
和風建築の災害復興住宅をみました。一角に12世帯入居する「井戸端長屋」がありました。孤独にならないよう洗濯機やお風呂も共用、集会室も設置したとのことです。
相馬市は、津波によって市全体の約15%が浸水し、甚大な被害がもたらされました。松川浦県立自然公園を始め多くの観光資源が壊滅的な被害をうけたとのことです。また、松川浦漁港では、被災した荷捌き場、共同集配施設,海水浄化施設、漁業倉庫等が、和風の外装の建物として復興整備されているものの、いつから操業できるのか、ほとんど、人けがなく漁船もつながれたままです。ここでも生業を奪われたまま。復興はいつになるのでしょうか。(右上:松川浦漁港域を示す標識、右下:漁港の荷捌き場、倉庫等の建物の写真)
最後に伝承鎮魂祈念館(下の写真)を訪れました。大津波に襲われながら一命をつないだ「語り部のかたからお話を伺いました。津波にのまれ流される時に、左手に叔父が右腕に夫がいたのに、気がついたら叔父が、次に夫がいなくなっていた。その時、夫が自分の名前を大声で3回叫んだのが最後だったと。自分は流れてきた屋根に必死に捕まり瓦礫にうもれながら助け出されたが、そのときは肌着1枚。低体温であと5分遅ければ命はなかったとあとで言われたそうです。自分は大地震に襲われたあと、津波がくるとは思わずすぐに逃げなかった。逃げればよかったと自分をせめ続けたが、助かった命、これから何十年か先に、また同じようなことがあるかもしれない。その時に、ともかく逃げろと言っていたことを覚えていてほしいと、このことを語り継ごうと思って、語り部の活動を始めた。始めの頃は、泣きながら語っていたが最近やっと落ちついて話せるようになったといわれましたが、両腕から離れていった夫さんのことを話すときは涙が出ていらっしゃいました。私も涙なしには聞けませんでした。
この視察報告を書き始めた時に、熊本県で大地震が起きて、震源地が大分県の方にも伸び、余震が頻発している状況になりました。阿蘇の方にも伸びる活断層まで連動する可能性もあるとのことで、川内原発を一刻も早く止めるべきと思います。地震の時には真っ先に火をとめろ!は常識です。原発事故は放射能をまき散らすのですから、空間的にも、時間的にも、社会的にもその被害は計り知れない程大きいものです。早く止めるべきです。