視察2日目、南相馬市の渡部寛一市会議員の案内で小高区、浪江町から双葉町の帰還困難区域ギリギリまで行きました。4月に立ち入り制限が解除され、昼間は立ち入ることが出来るものの、夜間は泊まることは出来ません。瓦礫の撤去は進んでいますが,住民らしい姿はどこにも見られませんでした。瓦礫の中間貯蔵施設の建設用地の買収が進まず、目処がたっていないとのことです。仮置き場があちこちに置かれていました。(上の写真)
小高区のある集落は60軒の集落でしたが、津波で1軒残らず被災し、何人もの方々が亡くなりました。前回来た時に、この集落では、里帰り出産した赤ちゃん含めてなくなったという話を渡部さんから聞きました。今回、慰霊碑とお地蔵さん(上の写真)が建立されていました。ここでも手をあわさずにいられませんでした。
さらに進んでいくと、いまだに家の土台だけ、あるいは津波の被害を受けたまま放置されている家が点在します。(右の写真:津波の爪痕がそのままに)特に10キロ地点の区域は、かろうじて姿をとどめているものの1階部分は流されて、凄まじい原型のままの家が点在します。時折工事のダンプとすれちがうだけ。いかに被害が大きく、そのことを手のつけ様がない区域が続きます。ここまでくると、遠くに原発の煙突が小さく肉眼で見えました。(左の写真)
請戸小学校は、地震の直後に大分離れた高台まで避難して児童生徒は全員無事だったとの事(右の写真:請戸小学校)。その請戸小学校の前までマイクロバスを走らせました。胸が痛み,全員無言です。
浪江駅にも行きました。駅前のめがね・時計屋さんも八百屋さん(右下の写真)も大きく傾いたまま、駅前は商店街と思われますが、どのお店も半壊のまま、5年経っても時はとまったままです。(左下の写真:浪江駅前で渡辺議員のお話を聞く)
仮設小学校に東高津小学校6年生から送られた千羽鶴が飾られていました。
視察最後は鹿島区域へ。小高区内の4つの小学校がそれぞれの学校の名前をのこしたまま合同で学校生活を送る仮設小学校を訪問しました。玄関から廊下に行くと、真っ先に目にとびこんできたのが廊下に飾ってある千羽鶴。なんとその千羽鶴には「川崎市東高津小学校6年生のみなさんより」というプレートが(右の写真)。校長先生から「送っていただいたんですよ。ありがとうございます」と言われました。胸があつくなりました。
校長先生からお話を伺い(下の写真)、中を案内していただきました。ほとんどが20キロ範囲内の小高区の小学校は30キロラインを超す鹿島区域の中学校の校庭にたてられています。4校あわせて90人程。子どもたちは4校全部の校歌を覚えて入学式や卒業式には、4つの校歌を全員で斉唱するそうです。小学校の仮設校舎をなぜ中学校につくったのか?渡部議員は、バスのなかでこう説明してくれました。「地震の被害で同じように苦しんでいるのに、30キロ離れる鹿島には義援金がない。20キロ範囲の小高にはあるため住民のあつれきが如何してもうまれる。それが子ども社会にも現れる。同じ小学生どうしだと学校生活にも影響が出るのではないかと、年齢差がある中学校の敷地内につくったと説明されました。本当に切ない話です。国と東電は原発からの距離で義援金の差別をするのは止め,被災者に寄添った支援に責任をはたすべきです。
今、子どもたちは疲れていると先生たちは感じているとのことで、「心のケアが必要です。元気なように見えても不安を抱えています」と校長先生は言われました。また、現在、小高区にも避難区域の解除が検討され、小高区内に小学校を再開しようという準備が始まっているとのこと。だれが戻るのか、お友達はどこに行くのかと心配していて人間関係が安定しない状況がある。こどもにも、保護者にもカウンセリングが必要な方がいます。とはなされました。教師が丁寧にみていきたいといわれました。
本来ならここに住み暮らす人たちの日々の生活の営みがあったのに。原発は本当にいらない。人類と共存できない。5年経過後の原発事故の被災地を見て,事故の原因も究明できず、収束のめどが全く立たない、そして、国や東電が避難指示が解除されても戻らないのは、自主避難だとして支援を打ちきるのは、あまりにも理不尽です。