6月11日、たかつ9条の会主催の「第7回たかつ9条サロン」が開かれ、下作延在住の88歳になる隅谷さんが「シベリア抑留体験」をお話され、シャンソン歌手の紫村千恵子さんの歌が聴けるということで、楽しみに参加しました。
隅谷さんは、1942年、満21歳で入営,戦地に行く前の3日間、母親が往復6時間かけて面会に毎日来てくれ、最後の別れに『100円札を握らせてくれた。あの時の母親の目はいまだに忘れない』と涙をこらえて語り始めました。
1945年8月列車に乗ってハルピンにむかうが、途中、年寄りと女、子どもだけの開拓団の集団と行き会うが、それは悲惨で、雨で全てがずぶぬれ、食料もない、乳飲み子を抱えた母親がなくなったわが子を抱いて呆然としている姿を見たときに、ドンバチするのが戦争だと思っていたが、「これが戦争だ!」と強烈に思ったそうです。 8月15日午後にハルピンに着いたとき、終戦を知ったということでした。「これで死なずにすんだ」「俺は死ななくてよいんだ」と思ったそうです。
でも帰ることはかなわず、ソ連の捕虜として、酷寒のシベリアのテルマに4年3ヶ月抑留生活をおくり、鉄道線路の建設作業をしたそうです。
ハルピンから北に向かう道中、線路の脇を1日40キロを7日間も歩き続けたときは、部隊の人が何人も脱落していったそうです。列車に乗り、ハバロフスクからイズベストコーワヤについたときに初めて防寒コートをあてがわれたそうです。クレドールからテルマまで100キロ、隅谷さんはトラックで運ばれたそうですが、中には歩かされた部隊もあったといっていました。
テルマでは屋根も窓もろくにない家に屋根や窓をつくることから抑留生活が始まったということです。マイナス40度にもなる酷寒の中で4年3ヶ月間、満州の寒さとテルマの寒さは比較にならない。満州で着ていた防寒コートはテルマでは縫い目から寒さが入ってくるのがわかるほどだったのことです。過酷な生活の中で、歌をみんなで歌い、合唱して、励ましあった。その時に「文化」をよく語り合った。「文化」が萎える気持ちを救ってくれたと言われました。そして1949年10月25日舞鶴に帰還されました。
終戦までの3年5ヶ月は「死ななきゃ帰れない」と死ぬことを考えていた。
抑留の4年3ヶ月は「生きること」を考えていた。戦争は2度とだめだ。シベリアで語った「文化」は選挙でしっかり政治に対する1票を投じることだと思うと語られました。
最後に、88歳とは思えない声量でロシア語で『バイカル湖のほとり』を歌い、会場のみなさんとカチューシャを歌いました。隅谷さんの歌すごく上手なんです。隅谷さんは、合唱団いちばん星に80歳になってから入団され、うたい続けています。
年月日まで鮮明に記憶され、1時間ほどを、疲れも見せずに、時に地図を示しながらお話される体力にも驚きました。
貴重な戦争体験を聞かせてもらい、2度と戦争はだめだと言う思いが本当に伝わるお話でよかったです。ありがとうございました。
紫村千恵子さんの「鶴」と言う歌もとても素敵で胸に、心に響きました。