視察2日目は釜石市の防災危機管理課課長さんよりお話をしていただいたあと、避難した人たちの多くが犠牲になった防災センターを案内していただきました。午後は地元の党議員のお二人に地域を案内していただきました。
1896年の明治三陸地震津波、1,933年の昭和三陸地震津波と過去2回の巨大津波の被害に見舞われた歴史のある釜石市では、2004年から津波防災教育に取組んできました。巨大な湾口防波堤をも砕いた東日本大震災の津波によって死者・行方不明者が1,000人を超す釜石市で、児童生徒ほぼ全員が逃れて命を守ったことから「釜石の奇跡」と言われています。下校していたこどもも、多くが自分で判断して高台に避難したとのことで、こどもの命を救ったのは、ここ数年の防災教育だったとのことです。
写真(左)市役所東側高架橋(釜石バイパス)口避難所から見た釜石港方面、(右)ガレキ処理場
釜石市の防災教育
2004年から群馬大の災害社会工学専攻の片田教授の指導を受け、生徒、教師の意識改革に取組んできたそうです。模擬授業や住民への講演会、教師との話し合い等に取組んできたけれども、最初はなかなか浸透しなかったそうです。
2007年に北海道地震が起きたあとで、生徒に「避難したか?」と聞いたところこどもは避難していなかった。理由は親が避難しなくてよいと言ったからということがわかった。「大きな地震がおきても、親も誰も逃げない。そんな環境で津波が必ず襲う三陸のこどもの命を守ることができるのか」と強く思った片田先生は行政と連携して、まず保護者の意識改革が必要ということで、防災教育の授業参観に取組んだとのことです。しかし最初は教育委員会に要請しても採用されなかったので、学校の先生対象の防災の授業や研修を行い、教師に防災教育の必要性をつかんでもらってから、防災教育の授業参観を行ったとのことです。
本格的には2008年度から文科省から防災教育のお金がついて始まったとのことです。児童は2008年から、学区内を歩き、災害時の危険場所や避難場所を自分で書き込んだマップをつくってきたとのことです。また下校時の避難訓練にも取組み、こどもたちを学校から帰し、帰宅途中に地震が起きたと想定、防災無線で知らせ、どこが安全か、津波の際はどこに逃げるかを考えさせ、誘導した。
小中合同津波避難訓練も実施したとのことです。過去2回とも発災から25分後に津波が到達していることから、15分以内に第1時避難所に、さらに第2、第3避難所まで避難しようと訓練時にはタイムを計って練習してきたそうです。
片田先生は津波避難の3原則として、ひとつは『想定にとらわれるな』自然には想定内はない。ハザードマップも信じるなと教えた。ふたつが「最善を尽くせ」、みっつは「率先避難者になれ」一生懸命逃げる姿が周囲のいのちも助けるということを教えたとのことです。
3・11当日
その教えや経験が生きたのが3月11日の大震災。ハザードマップでは、津波の想定外であった釜石東中の生徒たちは地震後すぐに「つなみがくるぞ」と叫びながら避難場所へと向かった。
隣接する鵜住居小学校では、はじめは屋上に避難しようとした児童たちが逃げる中学生をみて、後を追った。そして一緒になって学校から750メートルの距離にある第1避難場所の介護施設「ございしょの里」に行ったけれども、「ここは崖崩れがあるかもしれない」と判断したこどもらは、さらに高台の第2避難場所の高齢者のグループホームまで、中学生は小学生の手を引いて避難、ここは標高20メートル、学校から1.1キロメートルだそうですが、ここもあぶないとしてさらに高台の第3避難所まで逃げたそうです。津波は第1避難場所の介護施設にも到達、間一髪だったといいます。さらに高いところへと逃げたのは教師とこどもの適切な判断でした。
午後に、私達は釜石の共産党の議員さんに、第3避難所から、車で第2、第1まで案内していただき、道を下ってきましたが、かなりの距離と坂道でした。
釜石市教育委員会では「津波防災教育の手引き」を作成し実践しています。モデル校の教員らで防災教育わーキンググループを立ち上げ、小学校(低、中、高学年)、中学校の学習進度に応じて授業を実施できるように作成したとのことです。
中学生になると地域の一員として、津波から地域を守る対策を学びます。この授業を受けた中学生は「自分たちがしっかりと避難場所を把握して逃げる手助けをしたい」「自ら進んで地域の活動をしたい。もしもの時はお年寄りの家に救助に向かいたい」と述べているそうです。
今年の3月、教育長名で小中学校校長宛に「学校の防災(地震・津波)マニュアル作成時の留意事項について」という通知をだしています。
○ 津波注意報、津波警報及び大津波警報が発令された時に保護者は学校に児童を迎えに来ないものとする。
○ あわせてこうした通報が発表された時は、保護者は家で待機することなく指定避難場所など高台に直ちに避難すること。
○ 学校から避難する時は、児童生徒全員の避難とともに全教職員も避難する
等の内容です。要するに、学校を空っぽにしますから保護者は迎えに来ないですぐに避難しなさいということです。
今回も、地震後に海に近い小学校へ向かわず、自宅から高台へと避難した保護者の方は「心配だったがこどもは避難しているはず・・・と自分に言い聞かせながら逃げたとききました。地震の時は家族がてんでんばらばらに逃げる「津波てんでん子」の教えがあるといいますが、あらためて防災教育の大切さを学びました。親がこどもや学校を信じ、家族がお互いを信じる地域の力を育てるのが防災教育なんだと思いました。
釜石湾には、世界最大水深63メートルの湾口防波堤がありますが、津波に飲み込まれ簡単にひっくり返されたとの説明でした。湾口防波堤は津波の高さを低減させ、浸水を6分程遅らせたとの行政の方の説明でした。一方で湾口防波堤の返し波が鵜住居の被害を大きくしたのではないかという説もあり、真っ先に湾口防波堤再建の予算がついたけれども、この防波堤のあり方等の議論が必要だと思うと党議員の方は言っていました。
写真(左)防災センター入り口、(中)防災センター2階、(右)2階天井すれすれまで浸水したことを示す痕跡
海に近いところに震災の2年前にできた防災センターがあります。担当職員に案内してくれました。2階の天井すれすれまで波が到達したことを示す薄い線が残っていて、天井にアンテナがぶらさがっていましたがこのアンテナに頭だけだして助かった方がお一人いらっしゃるとのことでした。
防災センターができる前は、避難訓練時には、もう少し離れた高台の避難場所まで避難していたが、このセンターができてから、避難訓練の参加者がここなら近くて大勢参加できるということで、防災センターで避難訓練を行ったとのこと。震災の起る数日前にもここで避難訓練を行ったということです。
そのため、3・11の日も住民やすぐ近くの幼稚園の園児たちが、この防災センターに避難してきました。しかし、波に飲み込まれて大勢のいのちが奪われました。行政の説明では、第1時避難場所ではなかったが、徹底されていなかったとのことでした。
住民の方が数人お線香をあげにきていました。お孫さんをここでなくされた方でした。供台には、こどもさんの描いたお友達の絵や手紙、写真等が置かれていました。私達もお線香を上げさせていただきました。
何時起きるかわからない東京直下型地震といわれています。大地震の場合、川崎でも多摩川をどこまで津波がのぼるか、ハザードマップがありますが、市議団として防災教育の取組の提案を行ってきましたが、釜石市の取組を勉強して参考になりました。